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2012年1月 1日 (日)

FFXIII-2も中二病。

 ネタバレは、ありっちゃありかな。ま、プレイする気もないから、読んじゃえって人も、読んで脱力したってこっちは責任取りません。

 「続きを読む」の下です。

 

 To be continued.

 最後にこの画面見たときはのけぞりました。

 いやね、いいお話なら、正直いくらでも付き合うけどよ。金になんか糸目つけねえぜ。プレイ時間は深刻なくらいないけど。

 「続く」って何に「続く」の?

 FFXIII-3? なんじゃそれ?

 それとも噂のDLC? DLC買わないとあれで終わりか。

 まさかまさかVersus? つか、Versusつくってんの?

 あまりに・・・、あざとすぎるぜ。

 既に(古いブログのこの記事のほうで)書いたように、バトル・システムはもうどうでもいいです。端的に面白くないし、乗らないし。これ以上実は見たくない。

 まあ今回は主人公たちがふたりで固定なんであのくだらないパラダイム?のマネジメントの世界に付き合わされることも少なく、相当救われた。

 それも含めシステム上、前作からの改良点は多いし、なんだよ、前作も最初からこう造ったらよかったのによ、という点は多い。

 タイムトラベルもの特有のマップの使いまわしもさほど気にはならない。物語設定全体は依然として意味不明だが、少なくともこのFFXIII-2の中のお話であれば「まあいいかな」というレベル。
 (分岐の後先によって、ほんとうは主人公たちが知っていないといけないようなことを「知らない」と言ってしまうような矛盾はある。スノウにはもう会ったでしょ、というところで「どこにいるのかなあ」とか)

 うっとおしいバトルさえ解消されれば、全体的に謎探しはなかなか面白かったはずだ。ただそうなるとプレイ時間は短くなりそうだから、むちゃくちゃバトルをさせるという手段を使っているということもあるかもしれない。

 だいたいバトルを回避するためにそこここにチョコボ(乗ればバトルを回避できる)を配置するというのが、自分たちも「くどいな」と思っている証拠。それ自体はとてもありがたい仕掛けであるし、仲間になるモンスターなんて実は数種類育てればいいだけなんで、たくさん仲間にする必要もあまりない。育てる素材だってその分なら集まるし、集めようと思うときだけ集められることは大事だ。

 ところが、それもこのバトルシステムがほんとうに嫌いな人たちへのプレゼントとして安い(ゲーム内)コストでギヴ・アウェイするのではなく、場所によっては大変コストのかかるチョコボを配置しているところがすごいセコイ。
 ちょっとモタモタしたり、説明読んでいたりする間にもタクシーのメーターがカッチャカッチャ上がっていく(ようにチョコボ利用コストがかかる)のは、タクシーの運転手以外、誰が気持ちいいんだ。

 お話には前作の面倒くさい奴ら(スノウとか)があまり(ほとんど)活躍しないのもいい。
 前作のエンディングをご存知の方なら思い出せるはずだし、今回も何度も再現されるが、結局FFXIIIの戦いから無事生還したのは(まあ他のメンツも死んでいるわけではないが)、実はセラを除けば全部野郎ばかりなのだ。あの後で(FFXIII-2のお話で示されるように)ライトニングまでいなくなるわけだから。
 今回までその野郎どもに付き合わされるのか(ギャルズは誰もいないのだ)とガッカリしていたが、そうでもなかった。そこはとってもいいところ。

 ノエルにしろ、セラにしろ、少なくともキャラクターとして嫌いになることは難しいくらい薄味だし、(アニメーションなどの)グラフィック上の好感度はむしろ高い。その他の主要キャラは、まー、かなり類型的だけど悪くは無い。物語では重要な地位をしめる予知者(Seer)の娘の設定もなかなか面白い。色々な時代(あるいはパラレルワールド)に(クローン的な意味で)同じ娘が、違う運命を背負った違う人格として生まれる。ちょっち消化不良ではあるが、広がりそうな話だ。
 声優さんも含め、そこらへんにはけちつけません。

 バトルシステムをすっかり無視すれば、ワールド(バトルの密度が減ればやや狭いかもしれない)、ストーリー、音楽、ヴィジュアルまで、なかなかいい感じのFFシリーズにはなっていると思う。バトルシステムを除けば、できばえは実はシリーズでもかなり上のほうだ。

 長いプレイ中もそういう全体的な満足感が得られる。込み入ったプロットが極端に複雑なわけでもないし、自分たちが何をしているのか、何がなんだかわからないわけでもない。
 そしてセラとノエルの探索の旅は、実は愉しい。

 そういういい面も、一番上に書いたあの一文でもう、ぐったりとなってしまう。

 「世の中、そんな甘いもんやおまへんで」

 「善だ正義だと思っていても、結果的に巨悪になることってあるよね」

 「善なる存在の行いが、いつもいつも実を結ぶわけではない」

 「みなが皆幸せにはならないんだよ。最大多数の最大幸福ってのはあれは嘘なんだ」

 「得られるものがあれば、喪うものもあるんだよ」

 これらは、まさしく中二病の症例だ。確かにすべて真実だが、話がそこで終わるのはガキの発想でしかない。

 世の中は甘くないに決まっているのだ。正義をいくら声高に叫んだって、人生はいつも不公平だし、善はいまだに実現もされていなければ、善がなにかすら定義もされていない。
 そんなことはわかっているんだ。それをことさら嘯(うそぶく)くのは、嘯いていいのは、十四歳で世の中のつくりにはじめて気がついたガキだけなんだ。

 問題は、「それなのに、なぜそこに善があるのか」、「徒労に終わるかもしれないのにどうして、前に踏み出すのか」、「いずれ誰もが死ぬのに、なぜ幸福を追及するのか」、その先まで考えるかどうかだ。

 そしてFFXIII-2は「死にオチ」の形を取っている。

 もちろん、それまで遊んできた人は、目の前に見せつけられても、なんだよ、これって「死にオチ」じゃねえな、とはわかる。

 わかるからこそ腹が立つ。

 そして、"To be continued."だ。そりゃそうだろうな、と思いながら、怒りがこみあげてくる。

 最初からそのつもりだったら「死にオチ」の形すらいらねえだろ!

 FFXIIIのエンディングからは「実はあれ違ったんだよね」と、勝手にライトニングをへっぱがした。できも悪かったし、評判も悪かったから、何とかしなくちゃならなかったって事なのかどうか知らないが。

 今度だって別に「次回に続く」なら、「まだお姉ちゃんみつからないね、探しにいこう!」で終わりゃあいいんだ。

 プレイヤーには、こんな下らないドラマ(ですらない)で引っ張ると感動するようなお人よしのお子ちゃましかいないと思ってるのか。

 「零式」もそうだったが、こんなので二周も三周もやらせて、中古屋へぶん投げる人が減ると思ってるなら、そっちのほうがずっとお人よしでしょう。
 せっかくのルーズエンド的な味わいが台無しになるし、「続き」を見るまで、あれしか結果がないのなら、なぜ二周目(実際にはエンディング直前からコンティニューして別エンディングをみる作業)などやる気が起きるのだ。

 FFは、いつから、なんでこんなことになっちゃったのかなあ・・・。
 お話づくりはヘタクソとかのレベルを越えてヘタクソ。

 他の分野のできばえがなかなかいい(バトルシステムを除く)ので、この画竜点睛の外しっぷりというか、最後にアシに「先生、目をいれて下さい」といわれた漫画家が墨汁(古いか)ひっくり返して原稿台無しにした感じのガッカリ感がすごすぎる。

 もし作り手が、これでいいと思ってるなら、それはゆゆしき事態じゃないのかなあ。

  

 

 

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