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2012年1月27日 (金)

リスク社会、自由(というか私の懺悔)(2)

 先の記事のネタ元。読まなくても特にかまいませんが、適当なこと抜かしてると思われないようにアリバイづくり。自分なりの整理の意味もあります。

 「リスク社会」という場合のリスクの定義は、何事かを選択したときに、それに伴って生じると認知された、不確実な、損害。

 例えば大震災によって損害が発生することはリスクではない。だが大震災などの理由によって核燃料発電設備が損壊することはリスクである。
 民衆にとっては独裁君主の暴政に苛まれるとしてもリスクではない。一方で無差別テロ問題はリスクであるし、リーブラ・ショック、ギリシャ問題もそうである。

 大震災も暴政も、なにも民衆が選択したわけではないと認識されているからです。一方で、歴史上の植民地問題、民族・宗教紛争に由来する無差別テロ、エネルギー源確保のための核燃料発電へのシフト、自由主義市場経済への支持は、人間の選択の結果だ(と認識される)。

 リスク社会のリスクの特徴のひとつは、予想されるリスクが、計り知れないほどあまりに大きく破壊的な影響をもたらすこと(核燃料発電、ギリシャ問題などの事例でもわかりますし、地球温暖化問題もそう)。もうひとつは、実際にそれが起きる確率は極めて小さい(と考えるしかないこと)。

 さらに、核燃料発電自体が、石化燃料の枯渇のリスクに対応して導入されたのにもかかわらず新たなリスクになっている。無差別テロに対抗するために導入されたセキュリティ自体、今やリスクと化しているのもご承知のとおり。リスクそれ自体が自己準拠的にもたらされるとされます。

 リスク社会は、(アリストテレスの中庸の美徳も)民主主義の基本をも否定する。何が真理なのか、何が正義なのかたとえわからないとしても、それらがあるのであれば、理性的な多数の者がきっと合意するはずである。だから多数決の結果は正義や真理にきっと近いはずだ。そして多数が合意する意見は平均的なものであり、中庸にある。

 だが例えば地球温暖化問題を考えたとき、こうした中庸の策はまったく無意味です。問題が本当にあったのなら中間的な対策では間に合わない。だが問題が存在しなかった場合、中間的な対策はすべてムダになる。日本人であれば、核燃料発電問題でもううんざりするくらい聴かされているだろう。悲しいことに、あの話は決して中庸には収斂しない。

 同じことは科学、「知」にもいえる。科学者の間の見解の相違も、真理を探究する姿勢を欠かさず長い時間をかけて議論を続けていけば、やがてひとところに収斂していくにちがいない。それは「通説」となって、きっと真理に近いと確信できるはずだ。
 これも地球温暖化問題、核燃料発電問題を見ればあきらかなように、科学者たちの見解は収斂するどころか、議論は拡散し続けている。
 そうして、「知」を拠り所としていた「倫理的・政治的決定」が、「知」と切り離され、土台を喪う。 

 「リスク社会」でいうようなリスクが一般化されるためには、再帰性(reflexivity)を必要条件としているといいます。
 どのような行為もすべて規範を前提としているが、その規範への反省的・再帰的態度、(規範は変えることができるし、変えるべきだ)という自覚に基づいて不断にモニタリング・修正されている状況が近代社会である。だから「リスク」という言葉も近代になって出現したし、リスクの一般化は「近代であることが必要条件」である。

 だが、リスク社会の本格的な到来は20世紀末期であるとされる。それなら「近代」以外に別の要因がなければならない。
 個人の選択性(再帰性)が容認されている世界とは、例えば自由主義経済市場がそうです。市場全体の合理性を表現したアダム・スミスの「神の見えざる手」、それを歴史・社会にまで一般化したヘーゲルの「理性の狡知」などのアイデオロジー(イデオロギー)は、遡ればヴェーバーが資本主義の精神の由来とみたプロテスタンティズムの倫理(とりわけカルヴァン派予定説)に行き着く。

 こうした「見えざる手」、「理性」、「予定説の神」などが大澤氏のいう「第三者の審級」(普遍的な真理や正義を知っているはずの理念的な他者、超越者)である。
 これらは、本質に関しては不確実だが、実存に関しては確実である。いかなるものかわからないが、間違いなく存在するもの。リスク社会化とは、こうした存在が本質のみならず、実存に関しても不確か(空虚)となった状況を示す。20世紀末期に顕れたのもそのためであるといいます。
 
 リスク社会では、人は、真の自己選択・自己責任が強制される。「真の」とは、自分の行動に最終的に責任を取ってくれる他のいかなる存在もいないことを指します。

 イニシエーション(入会儀礼)、結婚式、裁判の証言台などでの宣誓では、形式的には宣誓しない自由はありますが、正しく選択する(つまり宣誓する)自由しか実際には与えられていません(大澤氏のいう「先験的選択」)。つまり「第三者の審級」(超越者)を受け入れるということは、一つの選択肢が強制されているということ。この場合に人が選択しているのは「第三者の審級」(超越者)そのものである。

(Skyrimの結婚式の宣誓の場面で、主人公に拒否する選択肢が出て思わず笑ってしまったのも、こういうことを薄々感じていたからであったのだ。イニシエーションでいえば、DA:Oのジョイニングの儀式がまさにそうだった。また古くは体育会や応援団などで一口一万円、二口以上などといってカンパを集める風習があったことを思い出す。カンパを出さない自由も一口だけ出す自由も、もちろん実際には行使できない)

 だがリスク社会における選択はまったく違う。私たち(の社会)は、開かれた選択肢を前にして実質的にも自由である。ところが何かを選択せざるを得ないので形式的には強制である。
 例えば日本人の私たちは、将来的にどんな結果を招くか想像もつかないが、核燃料発電に依存するのか、それともしないのか、一刻も早く選択しなければならないと急かされている。(先に書いたようにこの問題に関して、中庸という立場は本来存在しないはずです)

 リスク社会とは、「自由であること」、「好きなことをすること」、「快楽を追求すること」、そういったことが強制され、命令され、規範化された社会。
 自由は、かつては規範からの自由、禁止からの解放であった。つまり規範とは禁止のことであった。だから快楽は、規範を侵犯することによって得られるものであった。いかがわしい、不埒な、冒涜的なことが愉しかった。
 いまや、自由の行使そのものが規範となった。そしてそれが快楽そのものでなくてはならない。

 大澤氏が第三者の審級の「撤退」と呼ぶ事態がリスク社会である。例えばインフォームド・コンセントは、治療方法を患者に決定(同意)させる。超越者であったはずの医師ですらもはや「真理」を知らない。治療に確信がもてないから患者が意思決定の義務を負う。

 ネットでいえば、ウィキペディアの存在そのものがそうである。知の権威を帯びるべき超越者が不在だからあれが必要なのである。ツイッターも、フェイスブックも、全てその延長線上で説明できるでしょう。グーグルの検索エンジンもまた、超越者不在の申し子であることはいうまでもありません。

 ところが、大澤氏は、一旦撤退したはずの第三者の審級が裏口からまた舞い戻って来ているといいます。「自由であれ」と命令しているのは誰か。何かを選択したとき知らないうちに罪を犯しているかもしれないと感じる罪の意識の由来はなにか。誰に対する罪か。超越者である第三者の審級以外にはありえない。

 かつては、教師や裁判官が凡庸きわまりない人物であることは皆わかっていても彼らが「権威」の衣をまとって第三者の審級の代理人として振舞うことを容認していた。今、第三者の審級(の代理人)は(この本の出版当時や原稿発表時点では)、ビル・ゲイツやホリエモンなどの「カリスマ」の姿で現れている。本来苦行でしかない労働をまるで快楽であるかのように、遊んでいるかのようにこなしている姿。
 あるいはグーグルの検索エンジン。アルゴリズムは公開されていないが、それが故にもはや「権威」と言ってもいい。「ネットの意志」とまで呼ばれる存在になったのかもしれない。

(そういう意味で、ジョブズは古いカリスマだったのでしょうか。彼にとって労働は決して遊びなどではなく、苦行だったのでしょうから。
 また、裁判員制度に関して、「正義は上から振ってくるものじゃない」(から肯定する)とのたまった経験者がいたらしい。私がさっそくつっこみたくなったのは、じゃあどこにあるんだい?という問いだった。どこにいったのでしょうか?)

 最後に監視社会について、大澤氏は、監視は、リスク社会のリスクに対する免疫反応のひとつであるという普通の解釈に疑問を投げかけます。
 監視は個人のプライバシーを侵害しかねない必要悪などではなく、例えばリアリティ番組の登場人物たちが喜んで出演し、自分自身をさらけ出すように、私たちは超越的な他者から見つめられること、監視されることを望んでいるのではないか。そういうまなざしが存在しないことをこそ恐れているのではないかと指摘します。
 これはもちろん、こうした個人ブログ、ツイッター、フェイスブック、YouTubeなどへの個人の投稿を覗いてみればたちどころにわかります。大澤氏の言うように、ケータイ中毒・メール中毒もその一種でしょう。

 つまり、古臭いヘビメタの歌詞(ジュダース!)や、映画「イーグルアイ」ではないが、「監視=権力・抑圧」という図式はもはや通用せず、監視とは「自由であれ」と命じられた私たちが見つめられている(いたい)と期待しているまなざしであり、裏口から戻ってきた第三者の審級ではないのか。

 ただし快楽をどんどん追求せよ、という自由の奨励は、自由にとって制限よりも脅威である。親や教師、果ては政治家!から、少子化は困るから愉しくエッチしなさい、といわれたら、それは愉しくなく、快楽は喪われ、自由は萎えるのだ(そうである)。

 ***********

 んー、私の気がついた例示はもっと書きたいけど限界ですね。ここまでです。
 例えばなんとか48の「総選挙」が、このリスク社会に対するどれだけ痛烈なアイロニーであるか、皆薄々気がついてるんでしょう。

 フリーター問題、ホリエモン(!)とか、また社会学者たちがこだわりまくっていたオウム問題など、(発行から数年も経っていないのに)ちょっち時代的にどうなのという例示はありますが、むしろ、大震災・核燃料発電、ギリシャ/EU問題、そして貧困・格差、99%問題など、おそろしく「予言的」な部分も多いと思います。

 今ほんとにホットな話題となっている「監視カメラ」にすでに注目していたのも、どうなのでしょうか。かなり早いんじゃないだろうか。なにしろ、今のテレビに出演しているおばはん、おっさんたちは「街中の監視カメラが少なすぎる」ことに不平不満を述べているのだ。

 

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