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2012年1月27日 (金)

リスク社会、自由(というか私の懺悔)

 ここまでくると、もう偶然ではないな。無意識下で認識していたはずだ。

 このブログは、一旦書いたことを前言撤回、懺悔するのが常ですが、無駄なプライドは持ち合わせていないんで、気にはしない。

 またしても浅はかなことを書いていた。だがそのこと自体が云々より、まったく誤りであるらしいことがわかったことがとても嬉しい。

 テーマは「自由」とはなんだろう。私の感覚はとっくにずれてしまっていたということ。
 「超越」も関係ある。

 そういう話題がひとつも嬉しくない人は、はい、お帰りはあちら。

 問題の文章は次。
 IGNのSkyrim批判記事(実際にはフリーランサーの記事)に突っ込んでいた際に、何の気なしに(だから、まさか間違っているなど思いもしないで)書いた。

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 ゲームが「善悪の基準を押しつけない」のが正しい方向であるのはうなづけますが、そこはプレイヤーが補完すればいいでしょう。できるから全部やる、じゃただのお子ちゃまだし。できるけど敢えてやらない自由だってあるんだから。

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 そして、自己弁護させていただくと、ブログのその記事の最後に、なんとかこの一行を付け足しておいた。おかげさまで全面敗北、完敗は免れた。

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 自由こそ、一番面倒なんだよなあ。

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 ネタ本は、大澤真幸氏の「不可能性の時代」(岩波新書)。2008年発行。大震災よりも、そしておそらくリーブラ問題よりも前であることに注意。だから中心は少年による殺人事件だったり、オウム問題だったりするので、普通なら読みません。そういう問題には私は興味がない、すなわち「必死に意識の外に追いやっている」から。ましてや岩波新書。よっぽどのことがなければ(必死に)忌避してきた。

 確かに大澤氏の著作はそれまでも何冊か読んでおりましたが、この本を手にとったきっかけはやはり大震災、それよりも核燃料問題であり、それから昨今のギリシャまじやばい問題でしょうか。直接的には、Amazon.comの「あなたへのおすすめっ」にあったせいもある。

 ネタ本というよりも、これから、その中の一章を丸ごとなぞることになる。ただし社会哲学者である著者の著作は、大抵は素人にも読みやすく書いてもらっているとはいえ、いきなり「第三者の審級」なる彼独自の造語が飛び出してきたりするので、「そのままさくっと理解しました」ってのはウソになるし、こんなところでそれを説明する愚を犯すほどまで私はバカでもない。はしょります。つまみ食いにだけはならないように注意する。

 なお、本記事には関係ありませんが、大澤流「オタク論」についても一章さいてある。そういう方面にご興味があれば面白いかも。立ち読みでもされたらいいかも。
 また、本書のテーマでもある、日本における「戦後」の「時代」区分の話も面白い。東京の繁華街(の中心)が変遷してきた話で、なぜ自分は新宿では何も気にせず遊べるが、渋谷には結界が張られているかのように感じるかの答えもありました。新宿は「理想」の時代を象徴しており、渋谷はその後の、第一次オイル・ショック以降にはじまる「虚構」の時代を象徴しているから。TDLもまさにその時代に生まれた。オタクについても、まずその虚構の時代との関連で語られる。

 余談が過ぎました。テーマとなるのは「リスク社会再論」なる章であり、虚構の時代がもうすでに終わったかもしれない今の時代。

 この後、長々と(なるだろうなあ、きっと)付き合っていただける人は稀だろうから、答え(さわり)から書いてしまおう。私がどこを間違えたか。

「できるから全部やる、じゃただのお子ちゃまだし。できるけど敢えてやらない自由だってあるんだから」

 そういう(できるけど敢えてやらない)自由は、実は、ないのであった。

 自由は、かつては規範からの自由、禁止からの解放であった。つまり規範とは禁止のことであった。だから快楽は、規範を侵犯することによって得られるものであった。いかがわしい、不埒な、冒涜的なことが愉しかったのだ。
 いまや、自由の行使そのものが規範となった。そしてそれが快楽そのものでなくてはならない。

 リスク社会は、「自由であること」、「好きなことをすること」、「快楽を追求すること」、そういったことが強制され、命令され、規範化された社会である。

 なぜ、ゲーマーは、望むことはなんでもできないと無力感に苛まれ、激怒するのか。なぜ、ストーリーを「勝手に」決めるシナリオ・ライターは、邪教の神のように振舞う世紀の極悪人扱いなのか。なぜ、一本道の物語は唾棄すべきものなのか。なぜ、シネマティックなカットシーンが差し挟まれると憤り、最初から最後まで完全一人称でなければクソゲーなのか。なぜ、Skyrimのような圧倒的な分量のゲームに「やりこみ要素が足りない」などという批判が可能なのか。

 上に述べたような命令が遂行できないからである。規範が守れないからである。

 ウィキペディアやグーグルがネットの自由を守るふりをして、自己の利益(欲求)を満たそうとするのはわかる。だが、なぜ、(コンテンツの著作権者などではない)直接利害関係なんかない一般ネット大衆が大騒ぎするのか。なぜ、たかだか数時間、通信障害でスマホやモバゲーができないと大問題なのか。もっといえばウィキペディアの管理者やグーグルの経営者は、一体何がしたいのだ。地球上のありとあらゆる全ての情報をその手に入れないと気が済まないのはなぜだ。

 なぜ、私は、Dragon Age、Mass Effect、Skyrimの物語の全ての展開を、最終的には全部見ないと気が済まないと感じるのか。なぜ、いくつかの展開を見逃しているかもしれないという「罪の意識」に襲われるのか。
 なぜ、アニメ(録画)オタクは、放映される全てのアニメ(などの番組)を録画しないと気が済まないのか。全部観る時間なぞ、一生かかってもあるかどうかわからないのに。

 なぜ、一昔前(理想の時代か)には、猟奇的で隠避な嗜好として扱われていた、例えばサドマゾなどの趣向が、主として中高生が読むと言われるラノベに当たり前のように登場するのか。しかもそれら自体が「お約束」になってしまって、もはや(この作品にもちゃんと登場するというメッセージ以外)なんの効果も生み出さないほど陳腐化してしまったのに、例外なく必ず登場するのはなぜか。

 皆自由であること、好きなことをすること、快楽を追求することに苛まれているからだ。皆必死に、そうしなければならないのだ。

 何億人もが自分自身をさらけ出しているフェイスブックのユーザーは、セキュリティー意識の希薄な無邪気なバカなのか。違う。そうせざるを得ないのだ。

 本来(例えば防犯上の)「安全」を確保するために導入された「監視」カメラは、不特定多数のプライバシーを侵害する可能性を明らかに有していたにもかかわらず、もう誰も気にすることもない。「監視」されること、他者のまなざしに曝されることこそが、もはや快楽なのだ。ロンドンの監視カメラの数の多さは有名だろうが、もう必要悪とすら考えられていない。

 なぜ、このように、人類の発展にも地球の平和にも何の関係もない戯言しかないブログを、私は書き続けるのだろうか。答えは言うまでもありません。

 さわりのつもりだったのにこんなに長くなっちゃいました。ネタ本をなぞるのは次回だ。

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