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2012年2月 8日 (水)

「終わり」ということ。

 考えてみれば、このメイジ編もブログ記事はゴール直前で大ブレーキだったわけです。
 過去のブログを眺めてみると、そのケースが多い。ME2もそうじゃなかったかな。
 クライマックスだから画像を撮り直すという理由で日にちが開いているのではない。だいたいクライマックスは一回目プレイから気合入れて撮影できている。

 「終わり」がイヤなんですね。

 ゲームプレイ自体もエンディングの直前、あるいは、ME2のようにポイント・オヴ・ノー・リターン、ここからは引き返せないと宣言されるポイントでぐずぐずする傾向はあります。
 Skyrimのようにいつメイン・プロットのエンディングを迎えても構わないものですら、ぐずぐずする。

 「終わり」はなぜイヤなんでしょうか。

 では、なぜ「終わり」が必要なんでしょうか。
 大澤真幸氏によれば、「偶有性の感覚」、まだ他の展開、分岐、可能性があったかもしれないのに、という感覚は、「終わり」が公式に宣言されなければ克服されないから。「終わり」は偶有性を必然性に転換する魔術のようなものである。
 そして「終わり」の宣言を受容するということは、超越者(大澤氏のいう第三者の審級)に屈すること、「終わり」の宣言という権限はその超越者に帰属すると確認すること。

 それに関して大澤氏が、東浩紀氏の論を引いて説明しているのが、オタク文化における「反復」というモチーフ。
 大澤氏(あるいは東氏)が、「反復」になにかの外国語を想起して述べているのかわからないですが、私がとっさに思い浮かぶのは、"iteration"である。リニア・プログラミングをかじった方ならご存知だろう。日本語では反復代入というそうだが、あの、とても人間がやってられないくらいの単調で膨大な繰り返し、前回と大して変わらない(でもほんの少しずつ違う)再演、あれです。サイファイの世界でも、たしかギヴスンがどこかで用いてたなー。「ディフレンス・エンジン」?

 (厳密にはリニア・プログラミングではないが、エクセルのソルバー。あれは非常に近い。ほんとエクセルはなんでもありの化け物のようなソフトです。)

 オタクの二次創作と呼ばれるもの、このブログもファンサイトとしてみれば広い意味では一緒ですが、コミケ隆盛の説明も、この「終わり」と「反復」でできると大澤氏は述べています。
 「反復」とは「終わり」の拒絶ですね。
 本来物語の超越者であるはずの著者、作者のことを英語ではauthorといいますね。元はラテン語で年少者の後見人的な意味合いだったそうです。authorityでもわかりますが、ズバリ「権威」です。
 権力または権威ある超越者(著者)が物語の「終わり」を公式に宣言する、これを「正典」(a cannon story)といいます。「反復」とは、そしてそのヴァリエーションである二次創作とは、「正典」を拒否しているわけです。必然的に、超越者(著者)の権威を否定してます。

 RPGは元々はテーブルトップであったわけで、そこではゲーム・マスター(GM)あるいはダンジョン・マスター(DM)が用意したプロットを、プレイヤーたちの挙動にあわせてアドリブで変えていくことで、うまく物語を進めていくものでした。この場合の「権威」は、たとえばDnDのルールブックです。その「権威」の代行者としての役割を果たすのも審判(ジャッジ)としてのGM/DMでした。このような状況で「正典」が生まれる可能性は低い。
 サッカーのことをハプニング・ゲームというそうですが、誰も予期もしなかったが、なんだかわからないうちに物凄いプレイ体験・観戦体験をしたという、まさにサッカー観戦の味わいに近いものになるでしょう。

 CRPGの世界では、デザイナー/ライターが超越者にとりあえず納まりました。GM/DMが「ジャッジ」だけではなく「権威」になってしまったわけです。
 DA2が欧米でリリースされたときの大騒動を考えればわかるのですが、特に欧米のRPGオールドスクール派と呼ばれるコア・ゲーマーたちは、このBioWareのデザイナーの「権威」を一斉に否定し始めました。もう、上の大澤氏の説がまるで絵に描いたように再現されています。

 デザイナーの「正典」は受入れを拒否されました。元々、Originsなどをご覧いただければおわかりのように、BioWareは物語ができるだけ「正典」とみなされないように煙幕を張るのが常であり、得意中の得意でした。
 いや、Originsを言えばもちろん、主人公がモリガンとラブラブで、フレメスのことを打倒したつもりになって、モリガンはウォーデンとエッチしてゴッド・ベイビーを孕んで、最後にエルヴィアンの鏡で主人公ウォーデンと二人でどこかに消える、が「正典」でしょう。
 もし、Orignsを(リニアリティが必須の)普通のファンタジー小説にするならそうでしょう。

 だが、ゲームでは「あなたのプレイが正典そのものである」ということにしている。つまりこの物語の「終わり」はとりあえずまだ来てないんだよね、という期待を持たせた。エピローグでも「まだまだ物語は続きます」というナレーションがあった。アーチディーモンは打倒されたが、セダスの物語はまだまだ続きますと。

 DA2でコアゲーマーたちが打ち砕かれた夢は、コンパニオンの装備が自由に変えられないとか、クラフティングが幼稚園レベルの難易度にされたとか、そんな卑近なことではない。

 「正典」を押し付けられた、と感じたことだ。プレイヤーの「マイストーリー」を拒絶されたと、思い込んだことだ。認めてもいない、認める気すらないデザイナーの権威を許容することを無理強いされたと感じたのだ。
 つまり、大事な物語を、どこかの誰かに、勝手に「終わらされて」しまった、と感じた。

 もうその一言で説明が終わってしまう。

 「終わり」がイヤなのは、この認めてもいない超越者の権威に束縛されることがイヤ、ということである。

 前に、CRPGはこれから、Skyrimのようなオープン系の流れと、一部JRPGのローラーコースター系の流れと、二極分化するのではないか、と書きました。

 前者の説明はもういいですね。「マイストーリー」、「マイワールド」の中で、プレイヤー自身(「マイセルフ」)が超越者として振舞う形である。
 後者の説明ももうほんとは終わっている。まだ違った展開があったのではないかという「偶有性」の感覚が公式な「終わり」の宣言で「必然性」に転換されないと、どうにも気持ちが落ち着かないのだ。「中締め」でもいいからとりあえず「締め」ないと気が済まないのだ。一本道ストーリーが心地いいという場合は、そういうことだ。

 ただし「中締め」をするとしても、やはり「終わり」を導入するのだから、そこにも超越者が必要である。権威が必要なのである。
 どのようにしてそこに代入する権威を、プレイヤーから拒絶されないものにするか。FFシリーズが最近失敗を続けているそこの部分を、どう切り抜けていくか、大事だと思いますよ。

 ネタ本は以前と一緒です。「不可能性の時代」(2008、大澤真幸著、岩波新書)

 

 

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