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2012年11月21日 (水)

リングアベルは黙って。

ようやく「ブレイブリー・デフォルト」の本性がわかってきた・・・。

 ということでプロットのねたばれあり。「もう一生遊ばないよ」という人と「とっくに遊び倒したよ」という人たち以外、以下ご注意。

(ねたばれ注意)











 うわあ、これもろに反復・繰り返しネタじゃないか。しかも毎回同じ反復・繰り返し(repetition)ではなく、それぞれ展開が微妙に異なるイタレーション(iteration、反復代入)ネタではないですか・・・。

 そして、今から書くこのお話もここで何度繰り返したことか(笑)。
 
 もともと数学(リニアプログラミング)、コンピューター用語であるイタレーションをサイファイ的に用いたのは古くはウィリアム・ギブソンあたりから。
 現代サブカルチャー作品における繰り返し(レペティションでもイタレーションでもどちらでも)プロットの増大に関する考察は、これまでも色々な人たちが行ってきている。

 繰り返しの物語は、見かけ上では「次の展開(ひいては結末)になかなか(決して)至らない」物語である。その形式は別段目新しいものではない。続き物・シリーズものでは昔からふつうにある世界だ。小学五年生のまま定年年齢を迎えそうな少年が登場するテレビアニメもあれば、日本全国一体何回漫遊してんだよというご老公もいる(ただし沖縄だけは一度もいかなかったそうだが)。

 シリーズもの(冒険活劇小説、コミック、テレビ番組)はもちろんだが、ヴィデオゲーム(広い意味でのゲーム全般)にだって「同じ趣向の繰り返し」がビルドインされている。その形式自体に「現代的な」大きなテーマを孕んでいる。

 
 ひとつは「決定不可能性」である。今や、物語の結末はどんなものであっても結末を迎えた途端に「正典」性を喪ってしまう。たとえそれがオリジナルの作者の選んだ結末であったとしても「そんな結末は認めない」、「違う形の結末があったはずだ」という批判を浴び続ける。これは極めて現代的なオタク文化的な特徴であることは間違いないでしょう。しかも日本だけの問題じゃない。Mass Effect 3のエンディング騒動を見ればおわかりのとおり、世界中の(日本だけを除く)先進国で一斉に騒ぎが起きる。
 「カサブランカ」や「風と共に去りぬ」などのエンディングに「それは違う」と異を唱える人は確かにいたではあろうが、それがムーヴメントになることはなかった。作者(物語の紡ぎ手)には一定の「権威」があった。物語には「正典」(カノン)があった。

 作者の「権威」が長期低落傾向にある理由については、発端はマス・サーキュレーション・メディアという情報大量複製媒体、その後にインターネットというさらに情報の普遍性を増進させることになる技術の影響があることは誰でも指摘できる。そしてインターネット時代には作品のオーサーシップはそもそも誰のものかという重大なテーマが浮上してきている。オーサーシップはオーナーショップ(所有権・著作権)とはちょっと違って、本当は誰が作者か、作品は誰の創造物かという意味だ。

 例えば「ファンの声、声援」なるものに支援されて続くシリーズものの作者は本当はだれか、という話。なんとか48のオーナーシップは(一応法治国家の日本では)ゆるぎなく規定されてはいるものの、ではオーサーシップは誰のものか?
 ましてやプレイヤーの介在なくしては一歩も進まないヴィデオ・ゲームのオーサーシップとは何か。アーケードでコインを投下するプレイヤーがいなければ、ただただ延々とデモを垂れ流している筐体のゲームは、ではいったい何なのか。

 オタク・同人の二次創作(小説、コミック、アート、コスプレ、同人ゲームなどなど)が花開いたのも、オリジナル作者の相対的な「権威」が低下してきたからと読み解ける。そうした二次創作の世界では「正典」のエンディング(ロマンスなどの特定コンテンツを含む)は反発を浴び、ときにはあからさまに無視される。

 原初的なゲームの世界ではもともと勝敗のエンディングなどわからない。チェス、将棋、バックギャモン、カードゲーム、麻雀、様々な競技スポーツ、初期の対戦型ヴィデオゲームなどなんでもいいが、誰が(どのように)勝つかわかっているゲームなどいかさま・八百長以外にありえない。ゲームにはプレイヤーの技量に差があるから誰かが勝ち続ける(負け続ける)ことはもちろんある。だが毎回まったく同じ「勝ち方・負け方」は普通はしない。(いかさま・八百長は誰がどう勝つかのパターンが一定なので判別しやすいという説がありますね)

 RPGやADV系のヴィデオゲーム(原初的にはゲームブックを含む)は、誰が遊んでも結局同じストーリーで同じ結末を迎えるという欠点があった。その欠点を克服しようとしてマルチ(プル)・エンディングが導入される。複雑な(ときには場当たり的な)要因を代入値として、異なる複数のアウトカム(エンディング)を導出しようという試みだ。
 だがすべてのエンディングを見ないと我慢できないプレイヤーたちは、結局すべてのエンディングを見ても決して満足しない。

 なぜなら、簡単な言葉でいえば「話がすべて終わってしまう」ことが許せないから。
 村上龍氏(だったと思う)の喩えを借りれば、「ストーリー」はエナジーの減衰過程(エントロピーの増大過程)であるから、エンディングを迎えたストーリーには残余エナジーがない(対して「ドラマ」はエナジーの爆発であるという)。ストーリーの行き着く先(エンディングは)、そういう意味ではその世界の衰退、滅亡、「熱死」だ。

 
 繰り返しの世界には、「話が終わってしまうこと」、「その世の中のあるタームが固定されてしまうこと」、「物語が過去になってしまうこと」が許せない人々の欲望が表現されている。
 彼らには結末を選ぶことなどできないのだ。なぜなら、その結末が過去として固定されてしまうことが許されないだけではなく、他にあったかもしれない結末が「排除」されてしまうことも許せないからだ。

 だから文化祭の前日の準備を延々と続ける、彼女へのプロポーズの一日の経験だけを何度も繰り返す、不治の病の少女の命がはかなく消えゆく姿をただ何度もみつめる、ヴァーチャル・ゲームのラスボスを倒すことができずにいつまでも挑戦を繰り返す。結末を迎えることをかたくなに拒否している。

 実は「原因」というものが先に存在するという感覚は間違いであって、「結果」がなければ「原因」は存在しない。同じことの繰り返しをいつまでも続ける行動は、「結果」を出してしまうことで「原因」を創り出す主体になることを拒否し続けているともいえる。(「いつになったらあなたにお似合いのいい人を紹介してくれるのよ」と母親に愚痴られる主人公ホークもそうなのかなあ・・・)
 同じように「失敗」がなければ「理由」もない。「理由なき敗北なし、理由なき勝利あり」は野村元監督がそこまでわかって述べているかどうかは別にして至言である。

 だが一方でこの繰り返しには、「傍観者の無能性」という意味もまた含意されている。「不治の病の少女」の例もそうだが、結局のところ主人公(つまり私たち)は世界のことわり(少女の死)をどうこうすることなど決してできない、ただの無力で無能な傍観者である。(翻って、この主人公の視点こそ本当の「神」の超越的な視点であると解釈する説を私は気に入っているだが、ここで敷衍するほどロジックをよく覚えていないので、また今度ね)

 マルチエンディングやマルチパスに代表される「選択重視型ストーリーRPG」も、ローラーコースター型「一本道ストーリーRPG」もどちらも滅びはしないのは、実のところ根底では双方ともこの世の中のなりわいをそっくりそのまま表しているからである。どちらも正しい。どちらも真実である。「あり」である。どちらも欲望されている。

 青少年よ、大志を抱け。諸君の前には見渡す限り無限の可能性が横たわっているのだ。何かを決定するまでは。しかもその決定には実は諸君はまったく関与できないし、ましてやその結末などなるようにしかならない。なぜなら人生とはそういうものだから。この世界はもとからそうなっているから。諸君の都合など一顧だにしない運命の歯車が回っているから。

 私は「決定論者」でもなんでもない。だが「無限の可能性がある」と言っている瞬間から、それがどんどん浸食(erode)されていくことはよく知っている。何もしてなくたって時間が過ぎていき、その分可能性が消えていく(という現代人の時間感覚に苛まれている)。だが定義上無限の可能性があるならば、時間の経過とともにまたどんどん生まれているのかもしれない。「命短し恋せよ乙女」も正しければ、「待てば海路の日和あり」も正しい。
 
 さて、いつも同じ話の繰り返し、だいたいどこにも「ブレイブリー・デフォルト」のねたばれがないじゃないか、といい加減怒り出している方もいるだろう。

 もうとっくにずいぶん書いたよ? ねたばれ。

 3DSだから容量制限きつくて、ゲームプレイのヴォリュームを維持するためには結局マップ使い回し倒す「繰り返しネタ」に走ったのかなあと疑っていた。それもきっとあるだろうが、それだけではない。仕掛けはもっと凝っていた。
 
 Bravely Defaultって英語的に正しいのかしらと以前書いた。
 ゲーム・メカニズム的にコンバット・ターンの前借り(引当て)をブレイブ、ターンの保留(繰延べ)をデフォルトと言っているので、これにまんまと騙された。
 そっちは些末な使い方だ。

 真実こそ、ねたばれこそ、一番最初からゲーム・タイトルそのものとしてギラギラ輝いていたのである(私はスクエニの連中をちょっと見直したぜ、正味の話)。

 Bravelyは、もちろん「勇気をもって」、「勇敢に」という副詞だ。「元気よく」の意味もあるがここではちょっと違う(むしろLivelyを用いるだろうし)。
 Defaultは、本来やらなければならないこと、やることを期待されていることの「不履行」や「放棄」という名詞の場合が多い。動詞でも用いられる。コンピューター用語でデフォルトと言ったら「何もしない(手を加えていない)初期値」のことであるのはご承知のとおりだ。
 すなわち(英語的に正しいとするなら)意味は「勇気をもって(やるべきだった何かを)履行しない」ことである。

(追加:次の記事で明らかにしましたが、やはり英語的には「正しくもないし、何言いたいんだかちんぷんかんぷんな和製英語であった。うひひ)

 
 登場人物に「拒否します」が口癖の女性がいる。主としてセクハラまがいな言動を受けた時に使うので、最初は生真面目な彼女の口癖であると思っていた。 
 そうではないのだ。まだゲームを(本当には)クリアしていない私が言うのもなんだが、推理の材料は前半部ですでに全部与えられていたのだ。
  

 「勇気をもって拒否する」のがこの物語のテーマだ。ぶっちゃけると、それだけだ。
 勝間なんとかの本の題名みたいでイヤだがしょうがない。そんなしょうもないレベルのテーマじゃないし。

 「勇気をもって拒否する」ことができず、誰かの指示に盲従して言われるままに口開けて同じような行動(プレイ)を何度も何度も繰り返しても、この世界にはいつまでたってもロクでもないことしか起きないように仕掛けられている。違う「結果」を創り出そうとせず、主体的に「原因」を引き受けることを避け続けている主人公たちは、自分たちこそが決定不可能性の罠に陥る「原因」を創っているのかもしれないと知って絶望する。だが同時に、実際には自分たちが不能性の罠に陥っていることにも気がついていく。ただしイタレーションの妙で、主人公たちの出会う者たちの言動や世の中の姿が少しづつ異なっていき、大きな謎を解明する糸口が示されていく。
 (でもマルチエンディングを解明するため最後まで盲従するのも必要みたいだから面倒くさいけど)

 主人公たちは世界の危機を救う旅を進めると同時に、いずれも「自分探し」の旅を進めている。四人とも「境界人」。それぞれ「村を襲った災厄のソロ・サヴァイヴァー」、「唯一生き残った世界を救うべき霊能者」、「記憶喪失者」、「裏切り者」である。
 だが「自分探し」こそ決定不可能性の罠の最たるものである。「どこかここではない場所の、今の自分と違った自分」を探す行動こそ、「結果」を出さず、同時に「原因」も主体的に引き受けない「堂々巡り、繰り返し」の生き方そのものなのだ。なにを隠そう、れっきとした現代病であり、日本人の場合は特に重篤患者が多いのだ。創り手が意識していたのならこれも大したものだ。

 登場人物のもうひとりの女性は、当初は何事でも「白か黒か」ハッキリかたをつけないと気が済まないという血液型A型みたいな言動を取る。設定14歳、中二病だからしょうがないのかもしれない。
 やがて世の中には「白でも黒でもない、そもそもそんな尺度などにははじめから乗っからないことがたくさんある、むしろそっちのほうが大多数、デフォルトである」ということがだんだんわかってくる(本当の中二病は、やたらこっちばかり気にすることだけど)。

 私はスクエニの開発者たちのインタヴューなどをまだできるだけ読まないようにしているが、間違いなく核燃料発電問題のことも含意しているのだろう。

 だとすれば目の付け所は立派であると思う。核燃料発電は、果たして「安全」なのかそうではないのか、主張するお互いの論者は決して歩み寄る気配がなく、百かゼロか、「白」か「黒」かの世界から一歩も抜け出せない。多数の科学者をもってしても「正しさ」が解明できない、決して合意できないリスク社会の権化のような存在だからだ。
 作中では「クリスタル」がこれにあたる。これ以上はプレイした(している)人には説明不要だろうね。

(正義を履行するため邪悪な手段を用いることは果たして「善」なのか。「白」か「黒」かには、そういう派生テーマも含まれているのだが、そっちはちょっと陳腐かもしれない。ここにも「ゼッタイ的正義を履行するために自分の国を武力で征服しようとする」男も登場する)

 だがスクエニの開発者たちはきっとこのゲームのテーマについて、「世の中の物事には白黒つけられないことって、ありますよね」ととっても平板な物言いをするんだろう。あるいはペルソナ4の開発者のセリフ「世の中の噂ってなんでも信じちゃダメですよね」と似たようなセリフ、「人から言われたことをそのまま鵜呑みにしたら怖いですよね」かもしれない。
 クリエーターは雄弁である必要はひとつもないので、それでいいと思う。

 このゲーム、日本語版以外は今のところローカライズの予定がないそうだ。その「不履行」の意図もわかる気がするし、それでいいかもしれない。
 プレイしたかったら日本語勉強しろ(笑)。
(日本語シナリオやコーデックスは珍しく膨大な分量であるのだが)

 
 ただしイデアお嬢(白か黒かハッキリしろの女性)があまりにストライクど真ん中だからここまで頑張って苦労してきた私も、あと何周しないといけないか判明した時点で気持ちがだいぶ萎えてきちゃった。コンバットも非常に面倒くさいし、かなりこなれているとは言いながら、青臭いセリフも結構多いし。
 おっさん用簡易版も欲しかったなあ・・・。(私よかこらえ性のないガイジン向けを万が一出すときには、きっとおっさんにもやさしいヴァージョンになってるんだろうなあ)

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